江戸時代初期、大聖寺藩領内九谷村の鉱山で陶石が発見されたことから、藩士の後藤才次郎を九州の肥前有田で修行させ、その技術を取り入れたのが九谷焼の始まりといわれています。

 九谷村に最初の窯が開かれたのは1665年頃とされていますが、1710年頃には閉ざされました。この時期に青、黄、紫、紺青、赤で濃く彩色する斬新で華麗な絵付けが特徴のやきものを古九谷といい、後の再興九谷とは区別されています。

 再興九谷は古九谷廃窯から約100年後、加賀藩の殖産興業として九谷焼を再興することを目的とし、1807年京都より青木木米を迎え藩営として金沢に春日山窯を開窯、花坂村(小松)で陶石が発見された1811年に瓦窯を本窯として築いた若杉窯では磁器の量産化、1824年には九谷村の古九谷窯跡に吉田屋窯が築かれました。そして、古九谷の色絵技法である青手様式を受け継ぎ九谷焼が再興しました。その後、吉田屋窯は山代に窯を移し、宮本屋窯、九谷本窯と受け継がれ、それぞれの窯の指導者によって九谷焼の代表的な画風(赤地に五彩の木米風、四彩の吉田屋風、赤絵細描の飯田屋風、赤地に金彩の永楽風)が次々に生まれています。

 明治に入り、寺井の九谷庄三がそれまでの画風を取り入れ、当時、西洋から輸入されていた洋絵具を併用した新しい画風(彩色金襴手の庄三風)が注目され、多くの職人が集まり、貿易品や海外の万国博覧会出品により、九谷焼の名が広まりました。その後、古九谷や再興九谷の伝統を受け継ぎながら、細密色絵、毛筆細字、青粒、花詰などが九谷焼の技法として確立しました。

 1935(昭和10)年頃より帝展、日展、日本伝統工芸展に出品し、中央で活躍する人も多くなり、文化勲章受賞者、芸術院会員、重要無形文化財の指定を受けた彩釉磁器、釉裏金彩など、作家や窯ごとに数多くの創作的、個性的な新様式の九谷焼が生まれています。

 私はこのような九谷の土壌で生まれ、育ちました。母方の祖父が染付絵師、叔父は上絵付絵師と、モノ作りを身近に感じました。1971年に洋食器製造会社のデザイナーとしてモノを創り出す喜びを知り、その後、九谷焼資料館に勤め、歴史や作品に触れることで作陶への思いが強くなり、1991年より作陶活動に専念しました。

 陶房は石川県の南に位置し、白山に連なるなだらかな丘陵地にあります。庭には竹、隈笹、楓、椿、桜、山法師、大山蓮華、牡丹、芍薬などがあります。小さな池には睡蓮、蓮、杜若と緑に満ちあふれ、草花も四季をとわず咲き、山雀、目白、雀、尉鶲、四十雀、鶯、柄長などの囀りが絶えなく、作品制作の着想に事欠きません。春には巣箱から雛の鳴き声も聞こえてきます。

 豊かな自然環境のなか、移り変わる季節の何気ない日常の景色から感じたことを九谷独自の素材(杯土、釉薬、和絵具)を使い、ロクロやタタラ、型などの成形方法で形を作り、素焼をします。そして下絵付、施釉をし窯に入れます。上絵付をし再度窯に入れ、さらに釉上色付などの作業をおこないます。その作業工程の過程のなかで自分の思いを表現できるよう、下絵付けと上絵付けを併用するなど、形、加飾、焼成に工夫を凝らしながら土を捏ね、ひと筆ひと筆呼吸をととのえて制作してまいりました。

南 繁正